「療育」という言葉はもう古いのか?

「療育」という言葉、みなさんはどんな印象を持ちますか?
最近、こども家庭庁など行政の文書では「発達支援」という表現が増えています。「療育」という言葉は“治療と教育”を組み合わせた日本独自の用語ですが、「病気っぽい響きがある」「もっとインクルーシブに表現した方がいい」という声も聞こえてきます。
でも、私は現場で1000人以上の子どもたちに関わり、また経営者として数多くの事業所を見てきて、「療育」という言葉に込められた意味は決して古くない、むしろ本質を突いていると感じています。今日はその理由を、支援者・経営者としての視点から考えてみたいと思います。
「療育」から「発達支援」への流れ
確かに、行政や一部の専門家の間では「療育」より「発達支援」という言葉が使われつつあります。背景には、
- 障害や特性を「病気」としてラベリングしない
- 誰もが学び育つ権利を尊重するインクルーシブ教育の考え方
が広がっていることがあります。
これは社会の進歩だと思います。言葉が柔らかくなることで、保護者や子どもが安心して支援を受けやすくなる効果も確かにあるでしょう。
それでも「療育」が示す大切な視点
ただ一方で、私は「療育」=「治療」と「教育」という言葉が持つ重みも忘れてはいけないと感じています。
発達障害は「性格」や「甘え」ではなく、**脳機能の特性(神経発達症)**です。
そこには医学的な理解や、行動や学習を支える科学的アプローチが不可欠です。
同時に、子どもたちが日常生活や学校で自立して生きていけるように、教育的な関わりやトレーニングが必要です。
この両輪があるからこそ、子どもの発達を本当に支えることができます。
私は現場で、「療育」を受けてきた子どもが小学校に上がる頃にぐんと伸び、自分の力で歩み始める姿を何度も見てきました。それはまさに「治療」と「教育」の積み重ねの成果だと思うのです。
インクルーシブとトレーニングの両立
もちろん、インクルーシブ教育は大切です。障害の有無に関わらず、子ども同士が一緒に学び、遊び、育っていく環境は、社会全体を優しくします。
でも、それと同時に、幼児期からのトレーニングは不可欠です。
特に神経発達症の子どもたちは、「待つ力」「聞く力」「体を使った協調運動」などを系統的に経験していく必要があります。
インクルーシブの中でただ一緒にいるだけでは、子ども自身が苦しくなる場面も少なくありません。そこで「療育」の場で、個別に必要な力を育み、その成果を学校や地域で発揮していく。これが本来の循環ではないでしょうか。
言葉よりも「何をするか」が大事
結局、「療育」と呼ぶか「発達支援」と呼ぶかよりも大切なのは、実際にどんな支援をするのかです。
- 保護者が安心して相談できる場があること
- 子ども一人ひとりに合ったアセスメントと支援があること
- 支援者が専門性を磨き続ける仕組みがあること
言葉は社会の雰囲気を映しますが、現場での実践こそが子どもたちの未来を左右します。
終わりに
私は「療育」という言葉を古いとは思いません。
むしろ「治療」と「教育」が一体となったアプローチは、これからの時代にも必要不可欠です。
AIやテクノロジーが進む社会であっても、子どもたちにとって大切なのは非認知能力を育て、自分で生きていく力を身につけること。
そのために、私たち支援者は「療育」の本質を大切にしつつ、より柔らかい「発達支援」という言葉も取り入れながら、未来を見据えていきたいと思います。