“正解を教える大人”が、子どもの考える力を奪う

「答えをすぐ教える」社会のなかで
「これってどうすればいいの?」
「こっちが正解だよ」
――そんなやり取りが、あちこちで当たり前に交わされています。
子どもが何かに悩んでいると、つい大人は“答え”を教えたくなります。
その方が早いし、失敗も少ない。
でも、それを繰り返すうちに、子どもは**「自分で考える力」**を失っていくのです。
今の時代は、AIが一瞬で正解を出してくれる世界。
だからこそ、「自分で問いを立て、考え、判断する力」がますます重要になっています。
教育や療育の現場でも、“考える力”を奪わない関わり方が求められています。
子どもが「聞く」前に、大人が「言いすぎている」
支援や教育の現場では、こんな場面をよく見ます。
・子どもが困っていると、職員がすぐに「こうしてごらん」と助けてしまう
・失敗しそうになると、「それ違うよ」と止めてしまう
・子どもが沈黙すると、「何か言いなさい」と促してしまう
一見すると優しさのように見えるこれらの言葉が、
実は子どもの“考える時間”を奪っています。
大人の中には「教える=支援」だと思っている人も多いでしょう。
でも、本当の支援とは、「考える余白を残すこと」です。
“答えを持たない関わり”の難しさ
私自身、支援の現場にいたころ、子どもに何かを教えるときに「待つことの難しさ」を痛感していました。
子どもが答えに辿りつくまでの沈黙。
焦ってしまう時間。
つい、ヒントを出したくなる自分。
でも、その数秒の“我慢”こそが、子どもの思考を育てる時間なんですよね。
すぐに正解を言わず、「どう思う?」「どうしたらいいと思う?」と投げかける。
それだけで、子どもの目の奥が“考えるモード”に変わる瞬間があります。
「できた!」より「わかった!」を大事にする
多くの大人が、「できた」という結果を重視しすぎています。
でも、本当に伸ばしたいのは、“できる”より“わかる”のほうです。
「できた」は、一時的な成功。
「わかった」は、自分の中に残る学び。
子どもが「なるほど、そうか」と納得する体験を重ねると、
考えることそのものが楽しくなっていきます。
たとえば、ブロック遊びで崩れてしまったとき――
大人が「こうしたら崩れないよ」と教えるより、
「なんで崩れたと思う?」と聞いてみる。
子どもが「ここがグラグラしてたかも」と気づけたなら、それが“思考”です。
その瞬間こそ、教育であり、支援の本質です。
“教えない”支援は、放任ではない
「教えないなんて、無責任じゃない?」と感じる人もいるかもしれません。
でも、“教えない”ことと、“放っておく”ことは違います。
放任は「興味がない」
教えない支援は「信じて待つ」
子どもが自分の力で考えられると信じて、答えを急がない。
それが、支援者としての「忍耐」と「覚悟」です。
失敗しても、やり直せばいい。
間違えても、考え直せばいい。
その体験を積み重ねるうちに、子どもの中に“自分で考える土台”ができていきます。
「考える力」は、感情のコントロールから始まる
考える力は、知識よりも先に「感情の整理」から始まります。
怒っているとき、焦っているとき、人は考えられません。
冷静さが戻ってはじめて、思考が働く。
だからこそ、支援現場で大切なのは、
子どもが安心して考えられる“心の環境”を整えること。
「間違っても怒られない」
「笑われない」
「ゆっくり考えてもいい」
この3つの安心があるだけで、思考力はぐんと伸びます。
“正解教育”が生み出した「考えない子どもたち」
日本の学校教育は長い間、“正解主義”で動いてきました。
テストには必ず答えがあり、
先生は「○」と「×」で評価する。
でも、現実の社会には、“正解”なんてほとんどありません。
にもかかわらず、子どもたちは「正解を待つクセ」を身につけてしまっている。
それは、「失敗するのが怖い」という心理でもあります。
間違えると怒られる、笑われる――そんな経験の積み重ねが、
子どもたちの“思考の芽”を摘んでしまっているのです。
「わからない時間」を一緒に過ごす
支援者や教育者の役割は、“答えを与えること”ではなく、
“わからない時間を一緒に過ごすこと”だと思います。
子どもが黙り込んでいるときに、
「どうしたの?」「何がわからない?」と焦らず、ただ隣にいる。
考える時間には、“沈黙の共有”が必要です。
その沈黙の中で、子どもは自分の中に問いを立てています。
そして、答えが出た瞬間の「わかった!」という顔。
あの表情こそが、教育の喜びの原点です。
支援者の「問い返す力」が、思考を育てる
良い支援者ほど、答えではなく“問い”を持っています。
問いの質が、支援の質を決める。
たとえば――
「なんでそう思ったの?」
「他に方法はあるかな?」
「もしこうだったら、どうする?」
この3つの質問をするだけで、子どもの思考は何倍にも広がります。
大切なのは、子どもを“導く”のではなく、“探求に付き合う”姿勢。
「考える力」は、将来の“生きる力”になる
AI時代を生きるこれからの子どもたちにとって、
「考える力」は生存スキルです。
AIは答えを出せるけど、問いは立てられません。
人間だけが、「なぜ?」「どうして?」を問うことができる。
だから、子どもたちには「正解を覚える教育」ではなく、
「問いを立てて考える教育」が必要なんです。
これは、療育でも同じ。
「指示に従えるようにする」ではなく、
「自分で選び、考え、行動する」ことがゴールです。
支援現場でできる“考える力”を育てる関わり方
具体的に、療育や支援の現場でできる工夫をいくつか紹介します。
- 「どうしたい?」と聞く時間を意図的に作る
- あえて“選択肢”を複数出す(どっちにする?)
- 失敗したときは、“次どうする?”を一緒に考える
- 正解より、“気づき”をほめる
これを日々積み重ねると、
子どもが「聞く前に考える」ようになります。
つまり、支援者が静かになるほど、子どもは育つんです。
「大人が間違える姿」も、教育になる
大人が完璧すぎると、子どもは“失敗を恐れる”ようになります。
だから、支援者や親自身が間違える姿も、実はとても大切です。
「間違えちゃった!もう一回やってみよう」
「わたしもわからないから、一緒に考えよう」
そう言える大人のそばで育つ子は、失敗を怖がらない。
そして、自分の頭で考えることを楽しめるようになります。
大人が正解を持ちすぎないこと。
それが、子どもの自由を守る一番の方法です。
“考える力”を奪わない社会へ
今の日本の教育も福祉も、
「効率」と「成果」を重視しすぎているように感じます。
でも、人が育つのは“非効率”の中です。
考えて、悩んで、失敗して――その時間が、人生を支える筋肉になる。
だからこそ、私たち大人がすべきことは、
子どもたちの“考える権利”を守ること。
「早く」「正しく」よりも、「ゆっくり」「自分で」。
それを許せる社会でありたいと思います。
終わりに
支援者も保護者も、つい「正しい答え」を探してしまいます。
でも、正解を教えることよりも、
「考える時間を一緒に生きること」のほうが、ずっと意味があります。
子どもたちは、私たちが思う以上に考えています。
そして、大人が“待てる”ほど、子どもは伸びます。
正解を与えるのではなく、問いを共有する。
その積み重ねが、考える力を育て、社会を変えていく。